天命の人

Posted on 2013年 4月 21日(日)

この人が、うちんトコのひひじいちゃん中山 恵四郎(エシロウ)。

以前、黒紋付きの話しをしたけど・・・(その持ち主)。

詳細は、あまり分かってないけんど・・・(位牌には昭和25年12月12日往生 享年86歳)。

 

中山家の先祖、本をただせば遠州は掛川の出・・・(現在の静岡県)。

山内一豊が土佐二十四万石を賜り国主となりて入国、その際に我が先祖も公の供をなして此れの地に入来。

略代によると、中山清左衛門幸房 源之丞氏正 先政 右衛門義明と書かれており・・・(今となっては謎)。

それで話しは戻って、この恵四郎さん・・・亡き母の記憶によると彼は「ゆで卵」が好きだったとか。

また近くにある芳原観音のお堂を、お護りしよったみたいで・・・(どういう経緯があり、ここへ務めるようになったのか?未だ知れず。)。

その観音様・・・。

普段は、よくお参りに行かせてもらいよります(今は無くなってしもうたけんど、確か・・・小学校1・2年頃までは夏祭りもあって賑やかやった)。

『春野 歴史の百景』著書:宅間一之氏(平成20年8月発行:元高知県立歴史民俗資料館館長)によると・・・。

観音正寺観音堂の歴史は古く、今を去る1200年の昔、行基によって彫られた観音像が、柏尾山山頂の寺に安置されたことにはじまるとされ、伝説はともかく長宗我部元親の頃には、観音堂のほか本坊や東坊などのお堂がならび、寺は隆盛を誇っていた。その後どのような盛衰をたどり、現在の観音堂だけになったのかはわかっておらず、今見るお堂は慶安の頃、山内忠義再興の建物とされている。

ゆったりとしたそりをもつ寄棟造りの屋根、円い柱と、その柱をつなぐ横板壁、正面と両側には桟唐戸(さんからと)があり、回縁をめぐる3間の仏堂。正面は正方形につくられ内部は外陣と内陣にわかれ、内陣には円柱2本を建て禅宗様の仏壇も構えている。材は、すべてヒノキ、彩色もなく素木の美そのまま。清楚で素朴、人の心を和ませる厳粛な佇まい。

お堂のあちこちに見る彫刻は素晴らしく、なかでも梁の上に置かれた飾りの彫刻「カエルマタ」は、当代彫刻の白眉とされ、宝相花、梅、橘、牡丹、桃、ビワ、藤などの花々が実に巧妙に彫られてはめ込まれている。かつては美しく色づけされ、円柱と板壁の素木に映えて、一層光彩を放っていたと思われる。

戦後間もなく建築家の上田虎介氏によって見いだされ、1953(昭和28)年高知県有形文化財に指定される。以来優美な価値ある建造物として、国の重要文化財への指定をめざしたが現実せず、一時は倒壊の危機に見舞われたこともあり昭和50年、創建当時に近いものに解体修理され現在に至る。

また『はるの昔はなし』編著:春野町広報委員会(昭和55年3月発行)によると・・・。

「ほら穴の観音様」

芳原の里、北寄りの大芝という部落に「上の討ち場」「下の討ち場」という字名のところがあり、これは山内家指定の猟場の名残と思われる。正保4(1647)年の秋の一日、二代目藩主忠義公はここに狩りを催して大変不機嫌だった。一匹の獲物も無かったからである。供頭の志賀喜兵衛勝政は、不猟が自らの責任であるかのように思い、必死で茂みの中を駆け回った。その時、勝政は大曲がりの大きな楠のうつろ穴の中に何やら光る物を見付けた。

近寄ってみると、ずっと昔にお堂が焼けたという観音様だった。元は立派なお堂があったのだが、それが焼けてからはお姿も見えなくなっていた。忠義公は急ぎ観音様を拝んだ。そして獲物があるように祈った。それから不思議と獲物が多く捕れ、とうとう七頭の猪を仕留める事ができた。帰り道、再び観音様の前に立ち「今日のお礼にお堂をお建てします」と申し上げた。しばらくの後、参勤交代のため忠義公は海路大阪に向かう。

室戸の沖まで来ると、荒れてもいないのに船がいっこうに進まず「どうした、どうした」「何かあったのか」と大騒ぎしていると、行く手に真っ黒い雲が現れた。あれよあれよ、と言っている間にその雲の中から緋の衣を着た僧形の姿が浮かぶ。そうして「われは観音の化身なるぞ。先の誓いはどうしたのか。」という厳かな声。忠義公は恐る恐る「大阪へ着きしだいお堂を半分造らせます。土佐へ帰った時、後の半分を造ります。」と答えた。するとたちまち黒雲は消え失せて、船は大阪へと進んだ。参勤交代のつとめを終えて土佐へ帰った忠義公は、早速にお堂を造らせた。大阪で造らせた半分と、こちらで造らせた半分とがかっちり合って立派なお堂が仕上がった。その場所は寺が段といって、今のお堂の所より少し上の方だと言われている。

と、なかなか由来もあって・・・。

この下段にある馬頭観音の碑には、明治から昭和初期まで、この広い桜並木の馬場で草競馬も開催されていたと記されている。

 

恵四朗さんの亡き後・・・家には、その思い出の品もあり・・・。そこから世のため人のために奮闘しちょった形跡が何となしに感じられる。

おそらく仏さんだけに留まらず、神道にも通じちょた人ではないろうか?

今風に言うたら陰陽師的な感じ!?

また生まれた年から亡くなるまでの時代背景を見てみると・・・。

今をさかのぼる事1864年、京都では長州藩が京都御所を襲う『蛤御門の変』年に生まれ・・・(丁度NHK大河ドラマ『八重の桜』でも、その辺りやりゆうね)。

3歳 大政奉還

10歳 その頃は高知でも自由民権運動も盛んな時期。

30歳 日清戦争

40歳 日露戦争

50歳 第一次世界大戦

67歳 満州事変

75歳 第二次世界大戦

77歳 太平洋戦争

81歳 終戦

86歳 永眠

と!まあ~幕末から敗戦まで激動の時代を生きた人であることに、いささか驚き・・・。

それに比べて自分は、まだまだ頑張らなイカンと認識させられ・・・また同時に恵四朗さんと、ゆっくり話もしてみたいと思った。「今の日本をどんな思いで見よりますか!?」とか、そしてこの「私をどう思うちゅうか!?」などなど・・・。

 

募る話は山とある。

そうは言うても見守ってはくれゆうろうき、あんまりそこは贅沢言われんね(笑)。

いつもありがとう。。。

ちなみに初めての個展は高知市五台山・竹林寺で行ったけんど・・・。

寺伝によれば・・・神亀元年(724年)に聖武天皇が唐の五台山で文殊菩薩に拝する夢を見た。天皇は行基に五台山に似た山を捜すように命じたところ、この地が霊地であることに感得し栴檀の木に文殊菩薩を刻み、山上に堂宇を建立して安置したという。その後、大同年門(806-810)に空海(弘法大師)が滞在、修行し堂塔を修復したと伝えられる。

との事で・・・何故、初個展はお寺だったのか!?

そこがあんまり自分自身、分かってなかったけど・・・今やっと!その謎が解けてきた様に思う。

ウソ!

まだはっきりとは分かってない。

けんど上の流れからして・・・もうーそいう風になちゅうがじゃないろうか!?。

何事も続けてやりよったら必ず見えてくるものはあるはず。

継続は大事。

日々、簡単に諦めんと力つけて行くでー☆。