友竹斎筆

Posted on 2013年 8月 08日(木)

芳原地区には昨年、確認された幕末の絵師・金蔵の絵馬が二つあります。

前に紹介した芳原の観音様こと観音正寺観音堂に『賤ヶ岳合戦図』と、芳原の神社蔵に『日本武尊野火の難図』の二点。

芳原の氏神様・若一王子宮(にゃくいちおうじぐう)

夏祭 毎年7月29日 神事15時~

祭神 大日孁命(おおひるめのみこと)

この宮の背景として・・・柏尾の山頂近く、そこには五輪ころがる「寺が段」があり・・・。古代末期、山岳仏教の寺院として繁栄した「柏尾寺跡」。そして麓の坂本にある「若一王子宮」とともに熊野信仰隆盛のなかでの創建。はるかに海を見る山上からの展望は、修験の道場にふさわしい景観。

 

『日本武尊野火の難図』(縦約1m、横約2m)

慶応二年(1860)に芳原両下組により奉納

友竹斎筆

ヤマトタケルが相模(神奈川県)で国造りに欺かれ、野火に囲まれるが、草薙剣で周囲の草を刈り、袋の中にあった火打ち石で、逆に火を燃やして難を逃れる場面。

子供の頃は、この前で「神様も、いろいろあって大変やなあ~。」って、ぼんやり思いよった事を思い出す。

また小学校5・6年の時は祭りに奉納する浦安の舞(扇の舞・鈴の舞)も踊って・・・。

今も各氏子の家から女子4名、そこは変わらず継続されています。

また子供会よる絵馬提灯もあって、これは各自テーマを決めて描くがやけんど・・・。

そう言えば昔は、春野町盆踊り大会もあって・・・(絵馬も、後日そちらに移動)。

それで銀賞をいただきました。

絵の内容は・・・たしか丁度その頃、自分の中では「第一次・織田信長ブーム」が巻き起こり・・・(笑)。ほんで!信長もえいけんど、何となく妹のお市さんもいいかなと思って・・・。桜吹雪舞う自分なりのお市像を描いたら、それが思わくイイ感じになって・・・(ありがとうございます)。

景品に鉛筆・ノート・図書券とかもらって(嬉しかった♡)。

あらっ!?

そっからやない???

美術に興味が湧いてきたの???

かもしれん。。。

と!そんなこんなで・・・(笑)。

毎年8月5日 愛宕神社(とうろう)神事14時~

『春野 歴史の百景』著書:宅間一之氏によると・・・。

芳原丸畑、2本の銀杏の古木の下に、1基の石灯籠があります。

村人はここを「トーロ」と呼びます。

6段の石積みの上に立つ燈籠は、5mほどの高さとなって雄大壮麗です。町内随一の美しさとたとえられ、指定の文化財になっています。

石燈籠はもともと仏教にかかわるもので、本尊にささげる燈でした。その生まれも中国で、朝鮮半島を通り、今から1200年ほど昔の奈良時代はじめの頃、日本に伝わります。日本では神仏習合の中で、神前にささげられるようになり、室町時代には諸々の祈願をこめて、神前、仏前をとわず奉納されるようになりました。茶道の流行は庭に石燈籠をよび、今はまた、それとは関係なく庭にもたてて独特の趣をそえるようにもなりました。

芳原の石燈籠は、竿(火袋を支える柱)に、「文久三年癸亥秋九月」「芳原下両組」によって奉納されたことが記されています。130年ほど前で、笠に少し補修の後があるだけで、形は崩れず壮麗な姿を伝えています。

芳原愛宕神社の祭礼は、大銀杏樹のした、大きな石灯籠の脇に組み立てられます。田園のなか、あかりに浮かぶ芝居絵屏風の醸しだす夏の風情は、他では味わうことができません。簡素な絵馬台(台提灯)に嵌め込まれる芝居絵は、『蝶花形名歌島台(ちょうはながためいかのしまだい)』『奥州安達ヶ原三段目 環宮明御殿袖萩祭文の場(たまきみやあけのごでんそではぎさいもんのば)』『仮名手本 忠臣蔵山科閑居の場(ちゅうしんぐらやましなかんきょのば)』『玉藻前曦袂道春館の段(たまものまえあさひのたもとみちはるやかたのだん)』の4枚です。絵金派の町絵師の描いたものです(芳原下両組奉納)。

絵金こと絵師金蔵の生涯は、波乱に満ち、謎めいています。髪結いの子として生まれた絵好きの少年は、駕籠かきの供として江戸にのぼり狩野派を学びます。彼の絵才はたちまち発揮され、土佐藩の御用絵師にまで登りつめます。しかし贋作を描いたかどで追放され、一転町絵師となって芝居絵を描き始めます。人々は絵金と呼んで、迫真力のある芝居絵屏風をもてはやしました。

絵金には、芝居絵の他に笑い絵があり、数々の作品が残されています。芳原の台絵馬の小奥には「朝比奈三郎義秀」「藪井竹庵」の絵があり、「笑い絵」(戯画)の代表作とされています。「朝比奈三郎義秀」の絵は、巴御前の子といわれる剛力の猛者三郎が、巨大な男根で5人の裸女をころがしています。それを泣き顔の黒人ふたりがみています。この笑い絵は、黒艦で来航した大きな異人を朝比奈に見立て、舟子に多い黒人を登場させた幕末風俗絵と見られています。「藪井竹庵」の絵は、藪医者をからかった藪井竹庵が、男根に見立てた牛の角にはねられた5人の裸女の陰部を診る図です。ヤブ医者とは、絵金が御用絵師の座を追われたのちに名乗った「町医師弘瀬柳栄」で、絵金自身だろうとされています。

自由奔放な筆力はすばらしく、見て楽しめる大衆的なものを明るく素朴に表現しています。笑い絵を含む台提灯絵一式は、指定文化財です。

燭台の百匁蝋燭の揺れ動く明かりのなかで、極彩色の芝居絵は本領を発揮します。「血しぶき飛ぶ芝居絵屏風を創りだした法外な町絵師」として絵金はいまも人々の心の中に生きています。

との事で・・・。

偽絵事件から叔母を頼って赤岡に定住し、町絵師・金蔵を名乗り、そこから地元の農民や漁民に頼まれるがままに芝居絵や台提灯絵・絵馬・凧絵など多くを描いた絵金。

え!?

それって、もしや・・・。

芸術制作を行う人物を一定期間、この土地に招聘し、作家が滞在しながら作品制作を行う事業を、もうこの時からしょったってこと???

今風に言えば・・・アーティスト・イン・レジデンス的な感じ!?

ワオー!

やりますねえ♡。

そして、さっきから気になることがあるがやけんど・・・。

絵馬は、だいたい大きさ・絵師によって唯一、威勢を示すことができる地域のアイデンティティーとしたもの。氏子の寄付で、これだけのものを依頼できるのは、その地域に勢いがあった証拠ではなかろうか!?

恐るべし芳原両下組。。。

ちなみに、うちんトコは両上組で関係ないの・・・(トホホ)。

先日、宅間先生から聞いた話しで・・・春野では東諸木にも笑い絵があるそうです。先生いわく『この絵を前に笑わん人はおらん。みんなあ~笑顔になるき』と!確かに、その筆使いたるや自由でユーモラスで、それがまた滑稽で絵金が生き生きと楽しそうに描いているのがよく判る。そしてな何より、ここまで描かせる事を、よし!とした先人の懐の深さをも今回、改めて見つめ直す事が出来た。

また7月末『赤岡の絵金祭りに行ってきたよー!』って言う生徒とも話ししたけんど・・・。あの宵闇の中、和蝋燭の明かりを頼りに見る絵金の絵は、いかにもおどろおどろしい作品。けんど、これがしばらく慣れてきたら不思議と爽快というか・・・。確かに鮮血や苦悶の表情も迫りはするものの。何故か!?そこには嫌味がないというか・・・。もうここまで来たら行き抜けちゅう感があるがよねえ。絵金の作品には何か芸術の持つ力が人々の気持ちを立て直す、そんな作用もあるがじゃないろうか?

生徒が最後に『先生、生きるっていうがは、ああいう事をいうがやろうね。』と一言。

はい!また一つ芸の肥やしになりました(ありがとうございます♡。)