高知市は五台山竹林寺にて春期ご開帳の幕開け・・・。
この日は、朝から見事なピリカンで・・・。
秘仏本尊文殊大菩薩(五十年に一度の、結縁)平成のご開帳には、もっとも相応しい天候で御座いました。
途中、本堂に歩いて行きしな、納経帳の傍で住職に遇う。
紫の上にキンピカの袈裟。。。
眩しい~!
ちょっと!
失礼ながら・・・。
まあまあ、それでも軽く挨拶して、本堂へ急ぐ。
先に手を清め、蝋燭に灯明、線香を焚いて皆の仏様へご挨拶。
時間も時間やき、場所取りどうするかなあ~?
紫の作務衣集団である御詠歌レディーを見つけるやいなや、その横に陣取る。。。
まもなく境内には、ほら貝の音が響き渡る(これが、なかなかの音色!)。
善財童子の除幕式も始まり・・・。
多数の僧侶が輪となり、心地よい唱和の声に、彼らが手にした散華が舞い落ちる。
その散華を拾いたくて、近くまで歩み寄る。。。
ひらひらと舞い落ちた散華を手にして・・・。
すっくと顔を上げる。
すると、その場所から丁度、住職の後ろ姿が見え。。。
思わず・・・涙が吹き上げた。
その背中は、この人が今まで受けて来た一切を静かに物語っており・・・。
それは、もはや言葉にできぬものがあった。
確か、竹林寺の五重塔が出来たのは、昭和55年。
落慶式の記憶も、はっきり残っており・・・。
以前、住職とも何かの折で話ししましたが、あの日も凄かった。。。
五重塔というよりは、竹林寺全体がこの世のものとは思えんほどの絢爛豪華に人の熱気も只ならぬ世界・・・。
その日、家に帰って「是非、この感動を、保育園の園長先生に伝えたい。」的な事を言うて・・・。
興奮しながら先生に電話した事を思い出す。。。
そして竹林寺で個展を開催したのが、今から11年前。
当時は、まだ芸術の分野でも個展をする人は誰もおらず・・・。
住職に無理を承知の上で、お願いに上がり・・・。
はじめてお許しがでた・・・(云わば、先駆け)。
住職とは、それからのお付き合い。
その個展前から、住職が平成のご開帳にあたっての計画を練る姿も度々、目にしており・・・。
『揚梅の熟れる頃』著書 宮尾登美子の中に出て来る「おみくさんと竹林寺」を振り返っても・・・・。
住職のおじいさん義隆師・第41世住職。横浜は生麦の生まれで、かつて全山聖域だったこの地も当時は、かなりの人手に渡っていたとされている。ほどなく真言宗も妻子を入山させる許可がおりた関係もあって、敏腕を振るい、この竹林寺を導いたといわれている。
住職のお父さん志隆師・第42世住職。住職のお母様が二十一歳の時、徳島から一つ年上の婿養子を迎える。昭和四十三年、骨のガンにより他界(享年三十七歳)。
五重塔は、昔あの場所に三重塔があって明治32年の台風により倒壊、それを義隆師が生きていた頃より、再建したいという願いもあり・・・。志隆師も、それを気にしながら病に倒れる。
工費五億円、それに伴い宮大工も他県から招き、単に塔だけ建立しても中に祀る大日如来像も迎えて・・・。開眼式も行って・・・。そう考えると、真言宗本山の強力な後押しも必要だったのではなかろうか?
まもなくして和秀氏22歳の年に無事、完成。
その3年後、晋山式を迎え五台山竹林寺 第43世住職 海老塚和秀となる。
皆で一緒に飲んだ時も、『僕の父は、小学校5年の時に亡くなり・・・。父と言えば白い病室に横たわる印象が強く・・・。僕は、その~仏の世界が嫌でねえ。高校卒業後は、母にちょっと考えさせてもらいたい言うて外語大へ入って・・・。しばらくして大正大へ。今は仏の道に仕え・・・。』的な事を横で聞き・・・。
その時「この人は、よくもまあ~グレずに、やってきたなあ~。」と感心し・・・。
またそれ以上にお母様も、さぞ苦労されたはず・・・。
そんな事を思いながらの出来事やったけんど。。。
ご開帳の当日は、お母様・奥様・娘さんの姿も見え・・・。
断片的ではあっても、親から子へ、そして孫へ、この三世代に渡っての悲願を、より感じられずにはいられなかった。
この日ばかりは普段、お参りに行く竹林寺とは違い・・・。
やっぱり、ご開帳は開扉される瞬間に立ち会うが最高。。。
開いた瞬間、さながらロックミュージシャンのように激しい、僧侶の読経は爆発的で荘厳なエネルギー。
今となっては住職に涙するらあて・・・。
ちょっと!不本意・・・(笑)。
けんど、この人の業績は大きい。
見るからに、痩せコケたけんど・・・。
見事!男の大仕事、果たしましたね。。。
とは言うても・・・
まだ、秋もある。
住職よ!
その他人行儀みたいなことは言えんき・・・。
一先ず、大義であった(笑)!!!