本格的に夏らしくなって来たよ。
以前、化粧品会社のお姉さんから聞いた話で・・・。
『高知の日差しはメキシコ並みです。』と!?
まあ~それっぱー!紫外線もキツイという事で。。。
日焼け対策も大事です。
最近は、生徒も休み時間に外へ出て行っても、すっと帰って来るき(しよい♡)。。。
「今日は、普段よりも帰って来るがが早いねえ!?」
『先生ねえ。外に居ったら、もう暑いを通り越して痛いき~!ほんで、さっさと帰ってきた~!。』
と、それぐらい日が突き刺さるような暑さ☀。
みなさん体調管理には十分、気をつけましょう。
『おもてなしのこころ』
6月8日(土)~7月28日(日)まで
資料館が所蔵する資料で高知の「おきゃく」の雰囲気を味わうコーナー展示が開催されています。
高知では宴席のことを「お客」とよびます。
お客の絶対的ルールとして受けた杯は、必ず飲み干し相手に『返杯』するのがきまり。
返杯の返杯、さらに、そのまた返杯もあり・・・(下手をするとよい潰されるので「ご注意!」あれ)。
その料理といえば「さわち」が定番で・・・。
料理は「生(なま)=魚のさしみ」と「組み物(盛り合わせ)」が基本。
皿鉢の数は2.5人から3人に1枚を目安に用意しますが、融通性があるのも特徴。
人数に多少の変動があっても、融通が利く皿鉢料理。
会席料理と違い、料理・道具共に安く上がり見た目も豪華。
宴席の派手さと、気楽さ、伸縮自在な方式は、土佐人好みで、すっかり定着したもの。
『料理としての起源』
農耕儀礼として行われていた五穀豊穣の祈願祭や収穫を感謝する収穫祭には、神前に様々な食材が供えられた。神事の後、供えられていた食材をおろし、御厨(みくりや)などで神饌 として調達した。出来上がった料理は神に供えられるだけでなく、神事に参加した者も共に分かち合って食べた。この神と人が共食する酒宴を直会(なおらい)と言い、神と人が共に嘗め合う神事の一つであり、重要な儀式とされていた。
『皿鉢料理の歴史』
神事の際の儀式食が発展した皿鉢料理は、日常に食べるものではなく行事食であり「晴れ食」であった。旧家の日記や目録には江戸時代の行事食の献立として皿鉢と記されたものが散見できる。当時は正式な行事食である本膳料理の前後に供されていたようで、宴を彩るため、あるいは格式張らない宴席のために用いられたと考えられている。
ただ、江戸時代には「剛健質素」を藩是とした土佐藩の藩政下にあり、延宝2年(1674年)、延享5年(1748年)、昭和5年(1768年)、安政4年(1857年)には、売買と使用を禁止する藩令も出されており、皿鉢は贅沢品と見なされ庶民には無用の物とされていた。当時の記録にある皿鉢料理は、武家をはじめ豪商や豪農など一部の階級の者の宴席料理であったと言う指摘もある。
明治時代になると皿鉢の売買も自由になり、封建的な身分制度の廃止も伴って皿鉢料理は庶民にも浸透し、大きく発展した。現代の皿鉢料理に見られるような、何種類もの食材を盛り合わせた「組み物」や、盛り数を「七、五、三」の奇数にするといった形式は、この時代に始まったと言われている。明治から大正にかけての仕出し店は、仕入れた魚を持って得意先を回り、家々で皿鉢料理を作るといったものだったが、大正時代後期からは現在のような出前を主とする仕出し店が増えていった。昭和30年代になると皿鉢料理の専門仕出し店が高知県下全域に広がり、食生活の洋食化もあって今日では伝統的な郷土料理とやや趣を異にする、華やかな宴席料理としての皿鉢料理が主となっている。
明治時代以降から昭和にかけて、皿鉢料理は土佐の郷土料理として庶民の中に深く定着していった。同じ行事食ながら形式を重んじる本膳料理ではなく、皿鉢料理が受け継がれてきた理由として、共に料理を作れる事で互いへの慰労を示し、一つの皿の料理を分け合って食べる事により連帯意識や仲間意識が養われるなど、地域や村落が共同生活を営む上で極めて有用な「晴れ食」であったことが挙げられる。
『生』
活魚の刺身を、皿一面並べるのが基本。「はつ」(キハダマグロまたはメバチマグロ)の赤身や、春には「ドロメ」(鰯の稚魚)が夏には「ないらげ」(カジキマグロ)の刺身が並ぶ事もある。季節になれば鰹のたたきが加わり、そのほかシイラやブリ、タイやカレイなども用いられる。
「はい!ここで高知県民の皆まさに、ご相談です。・・・この刺身の下に敷いてます大根の『ケン』ですが、刺身と一緒に食べても大量に残るのが常。で!我が家では、ほぼ捨ててます。。。いつも捨てるの、もったいないなあ~。と感じつつ。。。皆さんのお宅では、どうされていますか!?何か!?よい使い道など御座いましたら、どうぞご遠慮なく、お知らせくださいませ。以上、「ケン」についての相談でした(笑)。」
『組み物』
生(なま)の皿鉢に見られるように、明治期になるまでは皿に一種の料理を盛るのが基本だった。これまでに知られている江戸時代の献立の中で1835年天保6年に「組物」という記述も登場するが、共に焼き物料理を盛り合わせた場合に「組物」と称していたと考えられている。
また、「組み物」という名も地域によって異なり、組み込みや組み皿鉢あるいは組み肴や盛りものなどとも言われている。
「組み物」には、煮物、仕直もの(練りもの)、酢味噌あえ、白あえ、酢の物、焼き物、羊羹、きんとん、季節の果物などが「ハラン」を仕切りに盛り合される。皿鉢に彩りを添える「ハラン」は明治期に「組み物」が登場して以降、料理の味や香りが移らないために用いられ始めたもので、単なる飾りとしてだけではなく「ハラン」の色が変わる事で料理の傷み具合をはかり、腹痛の際には「ハラン」を噛んで症状を抑えるといった効能から、「組み物」には欠かせないものとして定着していった。盛り合わせされた料理の中央を飾る「ハラン」を「縦バラン(親バラン)」と言い、今日では人造ハランが主流だが、精緻な切り込みで細工された下図などが現存する事から、かつては料理人の技量を示すものとして重要視されていたとも考えられる。
『すし』
白米と砂糖を用いた「すし」は「晴れ食」に欠かせないものであり、皿鉢料理にも必ず加えられる一品である。鯖の姿すし、甘鯛の姿すし、太刀魚のかいさまずし、鯖や鯵のひっつけずし、巻きずし、昆布ずし、いなりずしなど種類も豊富で、この他にも地域によって特色あるすしが盛り込まれている。
『郷土料理としての皿鉢』
婚礼や葬式、法事や神祭の他にも出生の名付けの祝いや節句、新築祝いや六一(ろくいち)と言われる還暦の祝いなど、宴を催すと言えば皿鉢料理であり、何十枚と用意する宴もあったことから、出された皿鉢の枚数を示す事で宴会の規模が解るとも言われている。
専門店の仕出しが主流となる以前には、行事の度事に手先の器用な者が中心となり近隣が寄り集まって皿鉢料理が作られており、小規模な神祭や仲間内の酒盛りなどの場合は、各々の家の主人が仕入れや調理を行っていた。
また、他に本職を持ちながらも皿鉢料理に造詣が深く料理好きで器用な人が、どの地域にも二、三人はおり、「器用やり」とも呼ばれ料理人として冠婚葬祭や講など大勢の客の集う行事の際に雇われては料理の腕を振るってもいた。交通が未発達だった昭和初期頃までは、海岸部や山間部などそれぞれに採れる農水産物の特徴を生かした皿鉢料理があり、「器用やり」の料理人達は先人から伝えられてきた地域ごとの盛り付けに関する決まり事や縁起を重んじ、「組み物」は祝儀の場合は中高に盛り不祝儀の場合には中低に盛る事や、食材を三角に切るあるいは作るといった様々な習俗を守って皿鉢料理を作っていた。
時代が移り、交通網の発達により食材の流通が活発になるにつれ、皿鉢料理の地域的特徴は薄れていった。昭和30年代以降、「器用やり」の料理人達は徐々に姿を消し、現在では皿鉢料理のほとんどが仕出し店や料理屋など専門店の手で作られている。
かつては皿鉢料理に欠かせない料理であった「鯛めんの皿鉢」や「蒸し鯛の皿鉢」をはじめ、唐芋に松の枝葉を刺して老松見立てとして生(なま)を盛り合わせた「松の皿鉢」や、カレイの皮を帆に中骨を船体に「はつ」の刺身を見立てた「宝船の皿鉢」など、還暦や長寿を祝う皿鉢や、大平に盛られた汁物やぜんざいの皿鉢など、今ではほとんどみられない伝統皿鉢料理もある。
山間部の檮原は、交通事情の関係から長く塩蔵した海の魚しか食べられなかった。塩出しした鯖を工夫して「晴れ食」に用いていたものが、高知のすし代表にも上げられる「鯖の姿ずし」の原型になったと言われている。
その他、四万十川流域の「焼き鮎のそうめん」や「鮎ずし」、足摺では「もぶりずし」をつわぶきの葉をのせて押し寿司にした「つわずし」をはじめカマスやビダで作る「いおずし」、室戸の「こけらずし」など地域の食材を生かし工夫された料理が皿鉢を彩る。
:宮川逸雄著『土佐流おもてなし|皿鉢|たたき|節句』(高知新聞社)参照
『ハラン組・南天組』とはハランや南天は皿鉢料理の飾りに用いられ、ずっと皿に残っていることから、宴がお開きになっても、しつこくグダグダと飲み帰らない酔客のことを言う。
ちなにみ母が生きていた頃、仕出しの皿鉢を取っても、それとは別に『五目ずし、かき揚げ、から揚げ、果物、羊羹、みつまめ、白玉ぜんざい、』などは家で構えよりました(自家製の漬物も揃えて・・・『〆の、お茶漬け用』)。
勿論!この時ばかりは家族総出で行うもんやき、当然そこには喧嘩もありつつワイワイ言うて(やかましいぐらい)。。。
結局こんな時、男の人は大抵、部屋の隅で司令待ちか、もしくは黙って出て行ったが故に後でこじゃんと!叱られるパターに別れる感じがするけんど・・・(笑)。
これもまた、それぞれに人間模様もあって面白いよ(ぐふふ)。
後、お年寄りの話しでは『子供の時は、俺の親父がハランの細工らあもしよって、それを横で見よった』とか『すしも親父が作った酢めしが一番、美味かった』などなど。。。
うんー!
やっぱり今の人間は固定概念に、まっこと囚われちゅうがかも知れん。
だってよ、これって『出来る人がやったらえい』という具合じゃない!?
そこには男も女も関係ない、ただ「皿鉢を上手に作れる人」のみにしか重点を置いてない気がする。。。
フッー!
昔の人はもっと、今の人よりもシンプルで合理的な考えをしよったがやないろうかねえ。
また今後の参考にさせていただきます。
※今回、撮影許可をいただきました資料館の皆様ご協力、本当にありがとうございました。
土佐人のルーツ・気質が何となしに見えてくる、そんな空間です。
また写真の道具類についての名前・詳細は今回、敢えて出しませんでした。もしご興味のある方は是非、会場まで足を運んでみてください。面白い発見もあるかもしれません。
入場料は無料です。